
ほんの二週間ほど前にチュイルリー公園の木々の葉が色気づき、緑と赤と黄のコントラストが目に鮮やかだった。シャンゼリゼもまた曇り空の中、同様のコントラストを僕達に見せてくれていた。秋が訪れたのだろうか。 「日本には四季がある」と言われるとき、それは四季折々の特徴的な風景の存在が念頭にあってのことだ。収穫、紅葉、中秋の名月、コオロギの鳴き声、揺れるススキなどが秋の風景を構成している。日本=四季の素晴らしさという図式を利用して、紅葉狩りツアーや秋の食欲ツアーなどが組まれており、日本人ならば四季折々をなんらかの方法で愛さなくてはならないと言わんばかりだ。 フランスにも四季はある。なぜなら四つの季節を意味する言葉が存在しているからだ。「人生の秋」( )と言う表現が用いられるように、秋は老いと成熟とを象徴している。しかし実際には秋は新学年( )と重なっている。新学年というと、日本では四月なので、明るい光の中の春の芽吹きという「新たな生」のイメージがあるが、フランス語の新学年には「新」という言葉は含まれていない。その代わりに「re」という「再び」・「〜の後でまた」という反復性を示す接頭語が含まれている。 長い長いバカンスの後で、再び朝早く学校や職場へ向かい、極端に短くなっていく日照時間と連日続く曇り空とに辟易しながら、蘇りつつある厳しい冬の記憶に身を震わせる。知り合いのフランス人が秋を嫌うのも、こうした理由によるのだろう。 秋が即座に新学年を思い起こさせ、そしてそれしか思い起こさせないのも、秋があまりに短いからだ。暑さが和らいできたら、すぐに朝晩の寒さが襲ってくる。現実の生活で、秋を思い起こさせるものはパリにはほとんどない。街を歩く人々の装いがそのことをよくあらわしている。秋らしい気候なのではと感じたときですら、街には半袖を着た人とコートとマフラーを身につけた人が混在し、季節というものが完全に失われている。秋は短いながらも確かにあるのだが、それは捉えがたい。 もはや秋は文学や芸術の中でしか味わえないのかもしれない。「昨日はまだ夏だった。しかし今はもう秋」とボードレールは歌ったが、実際には、「昨日はまだ夏だった。しかし今はもう冬」なのだ。
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