
とある公園に来た。建築やランドスケープをやっている人ならば一度は訪れる公園らしい。緑と水とコンクリートとガラスが快い形で共存するこの場所は、夏には名物の噴水のそばに、水着を着た子供づれの家族がわいわいとはしゃぎ、芝生の上には敷物をしいて日焼けに興じる人たちで溢れている。夏でなくとも、春や秋にはそれぞれ、忘れてしまった自然との感覚を取り戻そうと散歩に訪れる人が少なくない。あるいは最初から失われてしまっている自然との感覚を仮想体験しにきているというほうが良いのかもしれない。 冬の公園はどうだろうか。噴水は当然止められ、川の流れをイメージして作られた傾斜もコンクリートがむき出しのままだ。すでに冬の気温にもかかわらず、黄や赤に染まった葉がなんとか樹にしがみついており、うら寂しいというよりは、厳しい冬といった感じがしないでもない。いっそのことすべて落葉してしまい、丸裸になってしまったほうが紋切り型の「冬」という感じで、見ているほうは安心できる。 
この冬の公園で目にした散歩者たちの中に若者はいない。中年もいない。目に入ってくるのは老人と子供だけだ。もっとも、公園といえば老人たちが談笑し、子供たちがはしゃぎまわるといった光景が簡単に思い浮かぶかもしれないが、この公園の光景はそうした光景とは何の関係もない。子供は親とともに幾分静かに、この人口の自然が見せる光景を目に焼き付けている。子供の目は色に飢えていて、赤や黄色の葉、緑の芝生に釘付けになる。一方、老人は必ず夫婦でいる。かなりの寒さのため老夫婦は語らない。ただ黙って寄り添いながら公園の中を歩く。憩いも談笑もなく、ただただこれまで歩いてきた道を歩き続けるように。サッカー場の芝生の緑と公園の芝生の緑は同じものかもしれず、発炎筒の赤と紅葉とは同じ赤色なのかもしれないが、天気の悪い冬の公園には熱狂も一体感もなく、沈黙と張りつめるような寒さがあるだけだ。それでも足を運びたいと思うは、何かそこに暖かいものがあるからなのかもしれない。 |