
大学の授業で、とある廃墟にやってきた。文学とは別に、美学・美術史の勉強を大学でしているので(こういうところは、本当にフランスのよいところだと思う。この国では、二つあるいは三つの異なる領域を、複数の大学に登録しながら、同時に勉強できる)、今回の廃墟訪問はその授業の一環だ。廃墟や廃屋というと、日本ではもう使用されていない古びた病院とかホテルなんかが頭に浮かぶだろう。幽霊がでるとか、不気味な音がするとかいって心霊スポットになるというのが、日本での廃墟の消費のされ方のひとつかもしれない。 フランスでは、こうした廃屋に住み着くひとのことをSQUATTER(スクワテール)=不法居住者という。廃屋にはもちろん、電気や水道はないので、それを近くから引いてきたりして、生活している人が結構いるのだ。そして、これもとても有名な話だが、このスクワテールにはアーティストが多く、アーティストだけが住むSQUAT(スクワット)=廃屋がパリでは結構あるようだ。数年前には、こうしたスクワテールのアーティストだけの展覧会が大々的に開かれたらしい。 授業でやってきたところも、なにかの工場の跡地だが、中では何人もの人間が生活しており、2,3の部屋には、最新のパソコンと暖かいソファベッドがあって、内装もきれいにしてあるので、お洒落ワンルームマンションといった感じである。そうした住人の許可のもと、アート作品の展示、ビールや食べ物などの露天(この、食べ物とかもアートらしい、あとビールは自分でテキトーに額を決めて払うというシステムだった)、映画の上映、DJ、キュレーターによる講演などが行われたのだ。 アートだろうか?アートなのかもしれない。こうしたところから、国やなんらかの機関が関与しないアートの形、アートの萌芽があるのかもしれない。美術館やギャラリーといった特殊な空間でのみ<アート>が成り立つ、ということ自体をアートのかたちで問題にしたのはマルセル・デュシャンだった。だとすれば、SQUATアーティストたちの展示品はアートではないのかもしれない。あるいは、日常とアートの境界を不明瞭にしていくという意味では、デュシャンがやったことと彼らの試みは、展示の場こそ違えど同じ狙いをもっているといえよう。しかし、ここではまさしく「展示の場」こそが問題なのだ。最近では、国がこうしたSQUATを回収し、再開発しようとする動きが活発で、SQUATもどんどん姿を消していっているようだ。だから、アートと国家、経済、社会、権力がこれほど明確な形で対峙している「場」は他になかなか無い。それこそを問題にしなければ、SQUATであることの意味は消されてしまい、東京とかで山ほど見てきた、専門学校の学生とか、DJとか、美容師やデザイナーの卵とかがクラブを借りて行う「音楽とヴィジュアルアートとファッションの融合」という名の学園祭と変わらなくなってしまう。 しかし、残念ながら、そうしたことが授業で問題にされることはなかった。大学というある種の権威をもったものが、こういう「場」を借りて授業をやることの意味が、教師にはあんまり分かっていないようだ。 |